行為としての読書 第一回
行為としての読書(岩波モダンクラシックス)
DER AKT DES LESENS
ヴォルフガング・イーザー
轡田収訳
2005年、岩波書店
一読後の感想。
まだ整理できていないので感想のみ。
どのように読者がテクストから物語を創っていくか、という過程が考察されている。
私の問題意識と重なるところが多いため非常に参考になるし、先行研究として貴重であると思う。
受容美学という分野、ヴォルフガング・イーザーの本書とH.R.ヤウス『挑発としての文学史』が双頭と言う(訳者あとがきより)。そのうち、イーザーはより読者がどのように読書行為をしているか、それがどのようにテクストによって制御されているかという理論を立てる。
イーザーの理論としては、テクストのレパートリー、ストラテジー、そしてそれらの空所、イメージがコンテンツとして上げられる。これらのアイテムによって、読者は有る程度テクストに制御されながら読書行為という創造行為を成していく。
そこには視点の移り変わりによる、自らの価値観の相対化もうたわれる。
そして、概念的には、ノバート・ウィーナーのサイバネティクスや量子力学に影響された不確定性の重要視がバックグラウンドとして存在していると感じる。
また当時のドイツの社会的、教育的状況に関しては訳者あとがきに詳しい。この受容美学はドイツ教育が古典から実際的現代文芸へと舵を取る運動にも影響し、その理論的な部分を一定程度支えたようである。
理論を詳細に検討することは、今後の課題として残す。
読後、私がひっかかることを記す。
まず、私が知りたいことは、読書行為がどのように行われるか?である。
一方イーザーは読書行為の効用を意識しすぎているように思う。
効用があることを示すという目的に収斂させようと、理論は合目的的になっているように感じるのである。
言ってしまえば、私にとって、読書が人々にこれまで必要とされてきたことは、自明である。だから、その為に理論を立てる必要はないと考えている。自然とそうなるはずである。しかも、理論を考えている私本人がそう信じている限り。ことさら効用を必要としたのは、上述したドイツの社会的状況故であろうか?効用が無いと受け入れられない、もしくはそのような状況に著者も浸っていたのだろうか。
例えば、合目的的と感じる叙述は例えば以下である。
「その発見を自己の慣習にフィードバックせざるをえなくなるために、いわば第二の否定を自ら行うことになる。この点をとらえて、文学の価値基準とすることができるのではなかろうか」
むしろ私は彼の以下のような記述に注目する。
「どのような価値を重んずるかという問いは、芸術作品によって人間にどのような能力が求められるかという問題を尖鋭化するに至った。」(日本語版への序文ⅶ)
読書によってどのような能力が人間に必要とされているのか、を考えることの方が、読書によってどのように自己を良いように改革し(そのことが文学の価値基準)となるか、を考えるよりもずっと魅力的だろう。
なぜならば、後者は予め人間がどのように自己を改革すべきであるかという価値基準を必要としているからである。もしくは、変革すべきであるというそれを。
しかし、前者はそうではない。(私は読書への熱中と忘我に注目しているのだが)人間は読書に熱中することができる。その読書にどのような能力が必要とされているかという問いは少なくとも明には価値基準を必要とはしない。
また、イーザーがとりわけ読書の本質を探る上で現代小説に視点をあてて、元来の解釈学の限界を示している点も気になる。古典において、イーザーの理論はどの程度実証性があるのだろうか?極端な例でしか現れて来ないのだとしたら、元来の解釈学とフォローする場所が異なるだけになる。
更に、現代小説自体が、イーザーと問題意識を共有して創られているようにも感じる。そのような作為の及ぶ作品は、実際にはその作為以外に魅力がある可能性が見落とされる。「仕掛け」が強調される場において、本当にそれが有効かどうかは解釈学的解析の有効性同様不明である。
最後に、イーザーの理論では主客の曖昧さということが取り上げられ、それが読書行為の本質であるとしている部分は私の考えている読書理論と同一であるが、しかし、それにも関わらずイーザーは相互作用という言葉に拘る(原著未確認。確認予定)。一体、主客が曖昧な状況で相互作用という概念をどのように正確に用いるのだろうか?主客が曖昧であるならばそこには相互作用はないはずであり、それが読書行為の記述を困難にしている原因のはずである。
イーザーの理論を見る限り、現時点の印象では、読者の自己は保たれたまま、観測者としての読者で読書行為を行っているように思える。観測者が観測することで初めて状況が確定するという不確定性を意識しつつ理論を立てている。そのようなとき、観測対象の状態は観測するまで決まらないが、一方で観測者が揺らぐことは無い。しかし、本当にそのようなモデルであろうか?何故、観測者としての私たちは確定できているのだろう?それは自己や自我が私たちの思考に先立って存在すると言う先入観に囚われているのではないだろうか?
だから私はもう一度イーザーの理論を読者の自己を前提としないという立場で丁寧に読み直してみたいと思う。特に三章の読書の現象学について、その理論が読み替えられないか、考えてみたい。
しかし、合目的的過ぎるとは言うものの、このような決して単純でもわかりやすくも無い理論が、社会の教育という場に受け入れられ影響するという事態はすごいと思う。
既存の解釈学や、読書論が、日本において、そのように社会に大きく影響したことがあっただろうか?






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