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2012年3月 2日 (金)

行為としての読書 第一回


行為としての読書(岩波モダンクラシックス)
DER AKT DES LESENS
ヴォルフガング・イーザー
轡田収訳
2005年、岩波書店


一読後の感想。
まだ整理できていないので感想のみ。

どのように読者がテクストから物語を創っていくか、という過程が考察されている。
私の問題意識と重なるところが多いため非常に参考になるし、先行研究として貴重であると思う。

受容美学という分野、ヴォルフガング・イーザーの本書とH.R.ヤウス『挑発としての文学史』が双頭と言う(訳者あとがきより)。そのうち、イーザーはより読者がどのように読書行為をしているか、それがどのようにテクストによって制御されているかという理論を立てる。

イーザーの理論としては、テクストのレパートリー、ストラテジー、そしてそれらの空所、イメージがコンテンツとして上げられる。これらのアイテムによって、読者は有る程度テクストに制御されながら読書行為という創造行為を成していく。
そこには視点の移り変わりによる、自らの価値観の相対化もうたわれる。
そして、概念的には、ノバート・ウィーナーのサイバネティクスや量子力学に影響された不確定性の重要視がバックグラウンドとして存在していると感じる。
また当時のドイツの社会的、教育的状況に関しては訳者あとがきに詳しい。この受容美学はドイツ教育が古典から実際的現代文芸へと舵を取る運動にも影響し、その理論的な部分を一定程度支えたようである。

理論を詳細に検討することは、今後の課題として残す。
読後、私がひっかかることを記す。

まず、私が知りたいことは、読書行為がどのように行われるか?である。
一方イーザーは読書行為の効用を意識しすぎているように思う。
効用があることを示すという目的に収斂させようと、理論は合目的的になっているように感じるのである。
言ってしまえば、私にとって、読書が人々にこれまで必要とされてきたことは、自明である。だから、その為に理論を立てる必要はないと考えている。自然とそうなるはずである。しかも、理論を考えている私本人がそう信じている限り。ことさら効用を必要としたのは、上述したドイツの社会的状況故であろうか?効用が無いと受け入れられない、もしくはそのような状況に著者も浸っていたのだろうか。
例えば、合目的的と感じる叙述は例えば以下である。
「その発見を自己の慣習にフィードバックせざるをえなくなるために、いわば第二の否定を自ら行うことになる。この点をとらえて、文学の価値基準とすることができるのではなかろうか」

むしろ私は彼の以下のような記述に注目する。
「どのような価値を重んずるかという問いは、芸術作品によって人間にどのような能力が求められるかという問題を尖鋭化するに至った。」(日本語版への序文ⅶ)

読書によってどのような能力が人間に必要とされているのか、を考えることの方が、読書によってどのように自己を良いように改革し(そのことが文学の価値基準)となるか、を考えるよりもずっと魅力的だろう。
なぜならば、後者は予め人間がどのように自己を改革すべきであるかという価値基準を必要としているからである。もしくは、変革すべきであるというそれを。
しかし、前者はそうではない。(私は読書への熱中と忘我に注目しているのだが)人間は読書に熱中することができる。その読書にどのような能力が必要とされているかという問いは少なくとも明には価値基準を必要とはしない。

また、イーザーがとりわけ読書の本質を探る上で現代小説に視点をあてて、元来の解釈学の限界を示している点も気になる。古典において、イーザーの理論はどの程度実証性があるのだろうか?極端な例でしか現れて来ないのだとしたら、元来の解釈学とフォローする場所が異なるだけになる。
更に、現代小説自体が、イーザーと問題意識を共有して創られているようにも感じる。そのような作為の及ぶ作品は、実際にはその作為以外に魅力がある可能性が見落とされる。「仕掛け」が強調される場において、本当にそれが有効かどうかは解釈学的解析の有効性同様不明である。

最後に、イーザーの理論では主客の曖昧さということが取り上げられ、それが読書行為の本質であるとしている部分は私の考えている読書理論と同一であるが、しかし、それにも関わらずイーザーは相互作用という言葉に拘る(原著未確認。確認予定)。一体、主客が曖昧な状況で相互作用という概念をどのように正確に用いるのだろうか?主客が曖昧であるならばそこには相互作用はないはずであり、それが読書行為の記述を困難にしている原因のはずである。
イーザーの理論を見る限り、現時点の印象では、読者の自己は保たれたまま、観測者としての読者で読書行為を行っているように思える。観測者が観測することで初めて状況が確定するという不確定性を意識しつつ理論を立てている。そのようなとき、観測対象の状態は観測するまで決まらないが、一方で観測者が揺らぐことは無い。しかし、本当にそのようなモデルであろうか?何故、観測者としての私たちは確定できているのだろう?それは自己や自我が私たちの思考に先立って存在すると言う先入観に囚われているのではないだろうか?
だから私はもう一度イーザーの理論を読者の自己を前提としないという立場で丁寧に読み直してみたいと思う。特に三章の読書の現象学について、その理論が読み替えられないか、考えてみたい。

しかし、合目的的過ぎるとは言うものの、このような決して単純でもわかりやすくも無い理論が、社会の教育という場に受け入れられ影響するという事態はすごいと思う。
既存の解釈学や、読書論が、日本において、そのように社会に大きく影響したことがあっただろうか?

2012年2月28日 (火)

読書の歴史 第十七回

タイトル「読書の歴史」
著者 アルベルト・マングェル
1999年 柏書房

十七回目
読者の力
「5.壁に囲まれた読書」

今回は日本の源氏物語や枕草子が出て来る。
ちょっと思っていたのと違う解釈。どこに違和感があるのだろうか?最後が使命で終わっているところだろうか?
古来女性が読む物が限定されるという縛り、不自由さ、はあっただろうけれど、それを逆手にとって『遊ぶ』ということでかえってその体制の価値基準自体を崩していくという動きが見られないだろうか?ということが疑問。正攻法で行かれないときの攻略方法に思えるのだが。

○p249〜
著者が子供の時に女の子用の本を禁じられた経験。
女性用の物語が特徴的であったこと。
女性がそのような物語に夢中になることと、「ひとりではない」という意識、自我について
 →元々男性原理によって(多くは)書かれ、女性に用意されたもの。それによって、かえって獲得される女性の自意識。

書物の種類によっては、持っていることが「好ましくない」「認められていない」読者になることへ繋がる。

⇔一方で、現代において、女の子が男の子向けの本を読むことは男の子が女の子の本を読むよりも眉をひそめられない。これは女性の方が自由だということ?男性の方が、男性原理に縛られているということ?
それとも、女性の本の方がより露骨に女性性を出して、男性に読まれることを拒んでいるということ?
ボーイッシュな女の子は魅力になりやすいが、フェミニンな男の子は魅力になりづらいということ?

○p253
隔離された読者の為に、読者自らが作品を作る→十一世紀日本の宮廷女性
紫式部、光源氏について…→☆知識を持っていることをひけらかさないことが女性特有という感じで述べられているが、多分程度の差はあれど、男性にも共通であろう。

男性用のもの=英雄的、思想的な文学や言語、中国風の重厚な絵画
女性用のもの=家庭的な話題、他愛も無い文学や言語、日本独自の比較的軽い書き方の絵画
 →自らの読物を増やすために、話し言葉を写し取れる「かな文字」を発達させた。

ヴァルター・ベンヤミン「書物を獲得するあらゆる手段の中で、書物を実際に執筆することが、もっとも賞賛すべき方法である」

『源氏物語』『枕草子』どちらでも男性の宮廷人達の政治的な駆け引きについては触れられない。
 →☆これについて、著者は「不思議だ」というウェイリーを引用し、また、言葉の面でも現実でも隔絶していたので書けなかったのではないか?と言っているが、そうではなくて、そのようなことを書くのは禁じ手で下品なこととされていたのではないか?

基本的には、自分たち自身のことを書き、読み手としても自分たちと同じような女性を意図していた。

○p258
何らかの形で隔絶された人々がする読書には二種類か三種類
①広く知られている文学作品を自分なりの方法で掘り起こし、行間から自分たちと同様に社会から閉ざされ追放された人物の存在を浮かび上がらせる
②読者自身が作者となり、自らを語る新たな方法を考案して自分たちの閉ざされた日々の生活をページの上に蘇らせる
③ジョージ・エリオットが批判した作品。ある集団の範囲内で書かれたにもかかわらず、結局はその閉ざされた集団が形成されるにいたった社会のありきたりの姿や先入観を反映したにすぎない作品

アメリカの批評家キャロリン・G・ハイブルンの見解
「女性を描くには四通りの方法がある」
「自伝と呼ばれる形で自らを語るもの、フィクションと呼ばれる形で自らを語るもの。男性であれ女性であれ伝記作者が伝記という形で女性を描くもの、もう一つは、それとは知らず何か無意識の内に自らの人生に先立ってそれを記すもの」

○p260〜
 →☆ここからの著者の見解には納得できない。何故ならば、著者の見解では、虐げられ隔絶された作者の書く作品は、「自己の存在を社会的に確定することができない読者の場合、自ら生みだした文学作品の中西か、自分の人生を見いだす場がないからである」とし、それは精神分析にも比される。しかし、これはその芸術性の限定ではないだろうか?それに、どのようなひとでも、何らかの形で自らが釈迦的に隔絶されていると感じているのではないだろうか?そのような人が書くのではないだろうか?
 書いた物が結果的に一部著者の指摘する側面を持ち、自己肯定の為のものだったとしても、それだけではないだろう。更にそこに多数の読者がいるとき、一層多面的になるだろう。
 読書は社会的なものではない。社会的な側面もあるが、それは、現実に社会的な側面があるのと同様である。著者の来歴によって、描かれる側面が限定されることはありえない。

 →☆更に、現代では様々な書物の色分けをはぎ取って、自らの書棚にそれを位置づけ直すことが現代女性読者の使命であると書かれている(これは誇張であろうが)。しかしながら、ここに現れる、前出の女性が男性の本を読めるということとも通じて示されていることは寧ろ、「禁じているものこそが、その原理に縛られている」ということではないだろうか?そのコードはそれを用いているものこそを縛っている。そのコードを理解しながら無視することができるというだけではないだろうか?コードを採用したほうが、面白い、若しくは利益がある、そのような場合にのみ、現代では採用されている。但し、そのことに無自覚である以上、コードを作っているものに乗せられている側面は否めないが。いずれにせよ、共犯者なのだ。

2012年2月27日 (月)

読書の歴史 第十六回

タイトル「読書の歴史」
著者 アルベルト・マングェル
1999年 柏書房

十六回目
読者の力
「4.象徴的な読者」

どのような本を読むかによって、その人がどのような人か分かる。
そして同じ本を読んでいるというだけでその人と通じるものがあると思える(共同体意識)。
今回の内容は本を読むと言う意識を考える上で、その読んでいる対象が、私だけのものではないということがどういうことなのかを考えるヒントになると思う。

p236〜
養老院での老女の本について

トロントの地下鉄でボルヘス『迷宮』を読む女性。著者の愛読書でもあり、
「ただその本を持っているというだけで、いつも会っている多くの人たちよりも、私には彼女が近しく思えたのである。」

本の持つ象徴的な意味を意識して本を選ぶ。

p238〜
1333年、イタリアの画家シモーネ・マルティーニ、シエナの大聖堂に描いた受胎告知
マリアの手の下には本がある。

しかし、伝統的に、書物・巻物は父なる神かキリスト、アダムのもの。
 例外…ピエール・アベラールの女性と知性の関係の指摘
→マルティーニの絵画も控えめな女性を示すものだとされるが…

マルティーニの時代の女性は殆ど教育を受けていなかった。
マルティーニのマリアの持っている本は何であろうか?

それまでの本を持つマリア像
→例、1313年頃、イアタリのジョット。時禱書。
知恵文学(旧約聖書の箴言集など)を読んでいたと考えることも出来る。
箴言集第九章には「知恵」という女性が登場する
1389年、アンリ・スーソー「知恵の一生」…知恵の女性が主人公
古代から、女性は知恵と結びつけられていた。
→500年頃、フランク王クローヴィス一世がディアナ、イシス、アテーネといったさまざまな姿をとる場合も含めて知恵の女神信仰を厳しく禁じ、新たに建立されたばかりの女神を祀る神殿も閉鎖。
その後、キリストのみが「神の知恵である」として表象されていく。

このような時代背景に対して、マルティーニのマリアが本を持っていたということは、女性の神が本来有していた知性を復元する努力が払われたものと見ることができる。

マルティーニのマリア移行、キリストがマリアの持つ書物をしわくちゃにしている絵画が登場する。

現代においても、どのような書物を読む人物か、読む決意か、反対にどのような人物が読んでいる書物か、というように人物と書物は互いに象徴的に影響し合いそのコンテクストに絡み合っている。

2012年2月20日 (月)

読書の歴史 十五回

タイトル「読書の歴史」
著者 アルベルト・マングェル
1999年 柏書房

十五回目
読者の力
「3.未来を読む」

今回は読書というよりも、ある書物を予言として扱うことについて。しかしこの読み方から敷衍して、一般的に読者がどのようにテクストを受け取り得るかという話に繋がる。
あまり読書自体の歴史とは関係が薄いと思われるので詳細部分は省く(大変面白いのだが)。

○シビル(女予言者)
永遠の存在、ギリシャ、ローマ、パレスティナ、キリスト教ヨーロッパ世界においての予言に記録。
 ローマ帝国での予言書の支払い事件、アポロン、エリュトライの出生地について。

○コンスタンティヌス大帝
ミラノ勅令(313年。信仰の自由。キリスト教迫害の終焉)
→反対にキリスト教が迫害する側に。

325年、ニケーア宗教会議において、リキニウスとの交戦を異教徒との戦いであると宣言。
帝国の為に自分が選んだ宗教を絶対化するために異国の文物からさえもキリストの神性を確かめるようなものを導く。
→エリュトライのシビルの予言をキリスト再臨を示すものとした
多くの人々の心をつかむ(疑いのまなざしはあったけれど)
→さらに、「ラテン詩人の王子」ウェルギリウスもまたキリストを示す詩を作ったとした

○ササン朝ペルシャ初代国王 アルデシール一世
ゾロアスターの予言を成り立たせる為に年代記を再編(予言自体は絶対のもの)

○コンスタンティヌス大帝(続き)
ウェルギリウスの不都合な部分は無視
「理解する能力を持つ者にだけ」理解できるとした。
宗教的なテクストに対してたった一つの解釈だけが成り立つと規定。

○書物に対する自分なりの解釈
●サンマン・ラシュディ…『オズの魔法使い』に亡命者の寓意
●著者…シャーロックホームズものにロンドンへの文学的な憧れ、鏡の国のアリスの不愉快な生き物に多くの大人の姿の先取り、ロビンソークルーソーに将来の家を
●アニタ・デサイ(小説家)…『嵐が丘』の光景

○自分の将来を予言するかのような言葉の引用
「ウェルギリウスの箴言」
ハドリアヌス帝の伝記。トラヤヌス帝が自分のことをどう思っているか?

829年、パリの宗教会議では予言術を弾劾するが効果無し
→ガスパール・ピューセルの回想録(遊びとして予言を記している)

16世紀、予言はまだ流行していた。
ラブレーの描く「ウェルギリウスの箴言」のパロディ。

17世紀の流行。
アルゼンチンの作家、マニェル・ムヒカ・ライネスの小説「ボマルゾ」

1642年、清教徒革命の最中、チャールズ一世のオックスフォード図書館での出来事。
アエイネスの第四巻一節「彼は大胆不敵な部族によって執拗に攻撃され、故国から追放されることとなろう」
→ホワイトホールで斬首

1719年、ロビンソン・クルーソー、聖書の言葉

ロバート。ルイス。スティーブンスンの指摘
「それは作者自信が超自然的あるいは予言者的な力を持っているためではなく、詩そのものに備わった一種の模倣の力、すなわち時代を超えた読者に対して、親密に力強く訴えかける詩文の力と関係するものではないか」

「あのあるか昔の聖金曜日にコンスタンティヌス大帝が見いだした永遠の真理とは、てくすとkの意味は読者の能力と願望によって拡充されるというものである。テクストを目にした読者はそこに記された言葉を、歴史的に見れば、そのテクストとも作者とも関係のない、読者自身の問いかけに対するメッセージへと変換する。(中略)テクストは同じ言葉でありながら別の文脈に置き換えられ、再創造される。まさにその過程で、テクストはいわば生命を与えられるのである。」


感想
今回は読者の力を極端な例から示している。つまり、全く関係のない文書を自らの状況に関連づけ、そしてそれが流行するということである。
ウェルギリウスの箴言は確かに予言として流行することでずっと人々に膾炙しただろう。それだけの広がりをもったテクストだっとということだろうが、それ以上に読者の能力というものがどこまでもテクストを広げうる可能性を示している。
しかし、これは解釈の次元の問題とも言える。
つまり、解釈するからこそそこに余地が生まれる。そのような自己が入り込まないとき、どこまで人はテクストを操れるのだろうか?それともテクストに影響されるのだろうか?
とくに筋のある物語はどこまでそのような解釈によって変容されうるのだろうか?そのような変容(正しいものなどないだろうが)を小さくするものが、物語性かもしれない。異なる時間性、自己を忘れる感覚。

2012年2月17日 (金)

読書の歴史 十四回

タイトル「読書の歴史」
著者 アルベルト・マングェル
1999年 柏書房

十四回目
読者の力
「2.宇宙を創る人々」

今回は図書館とその分類の話。分類することで本自体が無限に広がるように思える。
読者がある本を読む時にテクストが初めて声をあげる(前回より)とするならば、読者がその本を沢山あるうちの一つ、分類されたうちの一つとして読むという姿勢を創ることになる。

○アレクサンドリア
エジプトのアレクサンドリアは紀元前331年にアレクサンドロス大王によって建設された。
アレクサンドロス大王が323年に亡くなる頃には「多文化社会」となり、エジプト・プトレマイオス朝支配のもと、周辺諸国の人々がその国籍にも続いて形成する「ポリテウマータ」とよばれる共同体ができていた。
生粋のエジプト人を覗くと、重きをなしていたのはギリシャ人。(紀元前四世紀アッティカの詩人メナンドロス「字を読める人は、二度ものを見ているのと同じである」

アレクサンドロス大王の父、マケドニア王フィリッポス二世は息子の家庭教師としてアリストテレスを雇った。
アレクサンドロス大王はアジア中央部への遠征中、本を取り寄せた。

アレクサンドロス大王の後継者、プトレマイオス一世、図書館建設。
知名度が高過ぎて著述がなく、そのため正確な位置、運営方法、破壊させたのが誰であったか不明。
図書館は独立した建物や部屋ではない可能性がある。

○アレクサンドリア図書館の蔵書
50万巻もの巻物。
印刷術発明以前のキリスト教ヨーロッパ社会においては二千冊以上を有していたのはローマ教皇のアヴィニヨン図書館のみ。

「書物を収集することは学者の仕事の一部であり、「記憶の過程」でどうしても必要であるとは、アリストテレスの考えである。」
アレクサンドリアの図書館はアリストテレスの弟子によって進言されており、まさにこの考えを広げたもので、この世界全体の記憶装置。

アレクサンドリアに立ち寄る船から書物を徴収して写す。
アテネからも貸借する。
贋作が売りつけられることもあった。

○目録作成
知識の集積が知識になるとは限らない。

図書館の膨大な書物の財産を人々が利用できるようにする手段が必要。
ある特定の書物に関心のある読者が、その書物を読めるようにする手段。

●カリマコス
司書として就任。キュレネ出身の風刺詩人で学者。
紀元前三世紀の初め頃北アフリカに生まれ、アレクサンドリアで生涯を過ごす。
アレクサンドリア郊外の学校で教鞭を取り、その後図書館へ。
文学とは、簡潔で虚飾を削ぐべきであると考えた。(上司アポロニオスとの敵対。「大きなる書、大いなる退屈」)

膨大な蔵書の目録作成。

目録作成は専門職とされていた。
シュメール文明にみられる最も書記の図書館には「宇宙を創る人々」と呼ばれる目録作成者の存在。
紀元前2000年頃作成のエジプト「書物の館」の目録は、目録自体が「寺院にある書物」「領土に関する書物」
「木に彫られた書き物一覧」「太陽と月の位置に関する書物」「地誌に関する書物」などの他の書籍目録の一覧を上げることから始められている。

カリマコスの目録作成方法。
ある世界観に基づいてこの世の諸々の事柄を体系化してこれに蔵書を当てはめる(⇔図書館の蔵書の実体に即してこれを秩序立てるのではない)
分類は当時の知識人や学者によって一般に認められていた体系に従っていた。
図書館の書架や「ピナコイ」と呼ばれる机を、戯曲、雄弁術、叙情詩、法律、医学、哲学、その他に分類。

完成した目録(これもピナコイと呼ぶ)=「文化の諸側面における傑出した人々ならびにその著作に関する分類表」
120もの膨大な巻物。
アルファベット順に並べる。
彼以前にアルファベット順の配列を採用しているのは、紀元前二世紀頃古代ギリシャの碑文の人物名。

○アレクサンドリア図書館の影響
今日、どの図書館にもこのアレクサンドリア図書館の影響がある。

アレクサンドリア図書館と目録の影響は
まず、古代ローマ帝国の図書館のモデル
次いで、ビザンティン帝国の図書館
さらにキリスト教ヨーロッパ社会における図書館

聖アウグスティヌス
キリスト教に改修した直後、378年執筆「キリスト教の原理」において、古代ギリシャやローマの作品もキリスト教の教えと両立しうると述べる。

このような折衷的な考え方が、380年代にローマ教皇ダマスス一世により、ローマ教会内では初めてとされる聖ロレンゾ教会内に創設された図書館にも見受けられる。
区別されながらも、キリスト教関連書籍とともに、古代ギリシャ・ローマの古典作品が治められている。

目録は?
キリスト教書記の図書館…書架ごとのリスト。順序は、最初が聖書、次いでその注釈書、聖アウグスティヌスを筆頭とする教父達の著作、哲学、法律、文法書。
表題がない物が多く、内容を簡潔に記したものやテクストの最初の数語が表題として用いられる。
アルファベット順に並ぶ物もあった。
十世紀、ペルシャの首相アブドゥール・カッセム・イスマーイールは十一万七千冊の蔵書を運ぶ際、ばらばらにならないように、順番に並んで歩くように訓練した四百頭のラクダを使って、アルファベット順に進ませた。

○目録の変容
中世ヨーロッパ、最初の主題別目録は十一世紀、ル・ピュイ大聖堂の蔵書。一般化するのは先のこと。

書物の分類は多くの場合、実用的な理由でなされることが多い。1200年第のカンタベリー大司教の蔵書の場合はもそれぞれの書物が最も多く使われる用途に応じて一覧表が作られる。

●1120年、サン・ヴィクトルのヒューは目録作成の新しい方法を提案。
それぞれの書物の内容を要約し、それを、理論の書、実践の書、技術の書というように教養三科目に対応した三つの範疇に分類して目録に掲載するというもの。

●リシャール・ド・フルニヴァル
1250年、園芸法をモデルにした目録作成法を考案
「自分の蔵書を「仲間の市民達が知識の実を集めた」庭に準えた彼は、この「庭」を、哲学と「実利的な学問」と進学の三つの花壇に分類し、それぞれの花壇を「アレオレ」と呼ばれるさらに小さな区画に分け、それぞれの小区画の内容について、カリマコスの「ピナコイ」のような内容目次表を付したのである。」
 →☆読書と記憶の理論で登場したフルニヴァル。このような記述は記憶する際に建築物を想像したという方法を思い出させる。
アレオレ内では、一文字一文字が一冊を表す。いくつかの同じ文字が別の書物を表すが、これを色で分ける。
小区画では収集した書物の量に対応する区画の数になる。
ド・フルニヴァルの庭は、教養七科(医学、法学、神学は別として人間の知性のほぼ全体像を具体的に表す)をモデルにしていた。

●アリストテレスの体系をもとにした目録
アラブ社会でのアリストテレスの受容
アッバース朝第五代カリフ、アル=マアヌーンの夢、その中でアリストテレスと話す。
学者をバグダット・アカデミーに呼び寄せてアリストテレスを研究させた。

カイロファーティマ朝でも、スペインでも、多くの図書館。

●ロジャー・ベイコン
アラビア語からの間接的な翻訳ではなく、ギリシャ語から直接アリストテレスを学ぶべき。
実験科学者(火薬、太陽熱、など)

○書物の分類基準
様々な分類基準が変容してきたが、どの基準を選択しても、そこからはもれてしまう部分がある。

偽の目録をその目録の威光を守るために付け加えることもある。
文筆家ポール・マッソン、パリの国立図書館には、十五世紀のラテン語およびイタリア語の文献が不足していると感じて、「この目録の威光を守る」新たな範疇も設け、その範疇の下に適当な文献のリストを作ってこの不足を補おうとした。架空の書物を創造して。

○図書館の宇宙観
「図書館のように人為的な分類基準が適用されている場所は、ある論理的な宇宙観を示すものといえる。全ての書物に適切な場所と定義が与えられた、いわば小宇宙ともいえよう。」
ほとんど無限と思われる蔵書によって、書物の永遠の世界を感じる。

「分類基準とは、そこに属さない部分を除外するものだが、読書はそうではない。いな、そうであってはならないのだ。どんな種類の分類がなされたところで、そうした分類は読書の自由を抑圧することになる。だから、好奇心旺盛で、注意深くある読者ならば、決定づけられてしまった範疇から書物を救いださなければならないのである。」


☆感想
目録とは、本来図書を利用できるようにするためのもの。
しかし、それを偽装する、という行為はどこか「威光」の為というよりも、「世界が揃っていない」という感覚によっているような気がする。
更にそのような宇宙は無限であるという感覚によってその絶対感も生まれるのだろう。
図書館に宇宙を表すならばその構成要素たる図書が揃わなくてはいけない。
分類は世界の腑分けであり、どのように世界を分けるかということは、どのように世界を見て、どのような世界を望むかということだろう。
どのように並べるかということは、どのような要素間の関係を望み創造するかということだろう。
分類を決めるということは、大変だが相当に楽しいことだと思う。
図書館の本がもしもばらばらで、自らが分類できるならどのようにするだろうか?

更に図書館が宇宙だと思える、その信頼は各の「本」の内容への信頼によっている。
それらの内容が濃い、要素足り得るものだと思うから(情報量だろうか?)。
その要素を作ったのは人間。それを読むのも人間。それを収集して分類するのも人間。
その中の内容を読むことができなければそれぞれの本の差異は無く、図書館は意味を失う。
意味?それが、宇宙の要だろうか??
文、ディスクール、本、図書館、それぞれがそれぞれの相似形を成し、人はそこに、その構造物に入っていく。
構造物を構造物と認識できる者だけが、それを有効にする鍵に自らを成すことができる。
理解するには、理解できる形にならないといけない。鍵の形をしなくてはいけない。入る前から入ることができなくてはいけないし、しかし入る前の私の形ではその中に入ることができない。
私たちはハードでもあり、ソフトでもある。それだけが私たちを鍵にすることができる。
即ち、もし純粋にソフトであるならば、鍵の形から外に帰って来ることはできないだろう。私たちは自分のハードをオリジナルの鍵穴として用意しておくことで戻って来ることができる。
勿論本当は綺麗にハードとソフトが分かれているわけではない。それは仮想的なこと。本に乗っているものが「情報」と名付けられる前にはもっと違う形だっただろう。

そう、「情報」という概念が名付けられ定量的に扱われることで、私たちはその前には戻れなくなってしまった。その概念の前にどのようにこれらが扱われていたか理解することが難しくなってしまった。
ハードとソフトを分ける、それらをどちらも情報として扱う。
情報という概念は現代において、何処にでも適用することができるし、それは一見新しい境地を開くように見えるだろう。しかし、それだけだろうか?
ある概念を手に入れるということは、その概念がなかったときの処置の仕方を理解できなくなるということだ。
その概念以前の自分の姿を見ることができなくなるということだ。
「情報」という概念をなくして今の自分を見ることができるだろうか?
「情報」という概念をなくして今の世界を見ることができるだろうか?
何が起こっているように見えるだろうか?

2012年2月16日 (木)

読書の歴史 第十三回

タイトル「読書の歴史」
著者 アルベルト・マングェル
1999年 柏書房

十三回目
読者の力
「1.起源」

今回から本の後半部分、読者の力に入っていく。
一回目はテクストが生まれる瞬間、そして、それが声を上げる瞬間、その記述が面白かった。
歴史的なバビロンの記述も、一方で『読書』という行為とオーバーラップしている。

○イラク、バビロンの遺跡、バベルの塔
バビロンの遺跡(1899〜1917年に発掘、再建)
バビロン
 紀元前2350年頃…アッカド人が小さな村
 紀元前2000年頃…ノアの洪水のことを記した最も初期のを含むギルガメッシュ叙事詩が初めて朗誦された
 紀元前十八世紀…ハンムラビ王が君臨
 紀元前689年…アッシリア人によって破壊、ネブカドネザル二世により再建
 紀元前586年頃…ネブカドネザル二世、エルサレムを陥れてソロモンの館を略奪、ユダヤ人を捕囚して連れ去る
 紀元前323年…アレクサンドロス大王が首都としようとする(没年)
 
○文字の発生
紀元前3000年、牛の頭数を表す
書記の技術と共に、読者を作り出した。
情報の受取手という存在がはっきりとした姿をもつ

○書き手と読み手
「書き手と読み手の関係には、本質的に、驚くべきパラドックスがある。それは、読者の役割を作りだすため、書き手は自らの死を宣告しなければならないということである。テクストを完結させるには、書き手が引っ込む、つまり存在を停止しなければならないからである。書き手が存在している限り、テクストは完結しない。書き手がテクストを手放したとき、はじめてテクストは誕生する。ただしこの段階でえは、テクストは黙した存在である。読者がそれを読んではじめて、テクストは声を発するのだ。有能な読者が銘板の記号に接触した時、はじめてテクストに生命が宿るのである。書かれたものは全て、読者によって決まるのだ。」
 →☆テクスト論であるような、読者の絶対性を述べているわけではない。(その後の記述からわかる)

○メソポタミアの写字生
様々な情報を伝える仲介者
貴族社会のエリート
 七、八世紀のアイルランド人写字生
 古代シュメール人
 マリ族の王ジムリ=リムの宮殿

紀元前2000年頃、象形文字から楔形文字へ
 象形文字…対象一つに対して、表す文字一つ→2000以上の文字
 →楔形文字…抽象的な記号、表音文字に近づく
 象形文字の発音を復元することは困難だが、後期シュメールやアッカド文明の楔形文字の発音の復元は行われている。

女性の写字生
 大抵の写字生は男性であった。
 文章の著者として記録が残る最古の女性は、プリンセス・エンヘデュアン。紀元前2000年。
→著者の名前を知ることができれば読者はその著者の声で読むことができる。著者という一種の架空の登場人物を想定することができる。

○読者の力
書き手はテクストを作成するが、読者の読み方は一通りではない。

ジャック・デリタ
「そのテクストが生み出された際の時が失われ、そしてまたその作者が、テクストを執筆しながら言わんとしていたことが分からなくても、読解可能」

ロラン・バルト
①「作家」…ある機能を果たす者。「作家」にとって書くことは、自動詞的な行為であって、特に目的語を必要としない。
②「書き手」…ある活動をする者。「書き手」が何かを書く場合、何かを教えるとか、説明するとか、教育するといった目的語が常に必要となる。

読者についてもバルトのような区別があるのかもしれない
①「読むという行為そのものの中にテクストがその存在をはっきりと現し、読者がそれ以外の動機(ここでは娯楽も含まれない。読書の楽しみは、読書をすることによって満たされるものだから)を持っていることはないという場合。」
②「学習とか批評などのように、読者が読書以外の動機を持ち、テクストが、別の目的を達成するための手段となっている場合である。」
 ①の場合読書時間はテクストの性質によって決まる
 ②の場合、読書の目的に応じて読者が決める

2012年2月12日 (日)

読書の歴史 第十二回

タイトル「読書の歴史」
著者 アルベルト・マングェル
1999年 柏書房

十二回目
「10.読書の隠喩」

今回の章は短い。
だが、とても重要だと思う。実証は出来ないが。

○ウォルト・ホイットマン
 →☆wikiより、基本情報 1819-1892(72歳)、アメリカ合衆国の詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。
外界の様子こそ、自分の作品への注釈にほかならない。

ホイットマンの二つの姿
①ウォルト・ホイットマン、一つの宇宙、マンハッタンの息子、同時に他のあらゆる場所にも根ざす『草の葉』の作者
②ロング・アイランドに生まれ冒険物語を愛読紙、都市の若者や兵士、乗合馬車の御者などを好んだホイットマン

1860年版の『草の葉』
「カラメード、これは書物ではありません。
 これに触れる者は、人間に触れているのです。
 (今は夜なのか?ここにいるのは我々だけなのか?)
 あなたが抱いているのは私、私が抱いているのはあなた。
 私はページの中からあなたの腕の中へと飛び込む。ー死が私を奮い立たせせる。」

ゲーテ
「見よ、自然は生ける書物、
 誤解も理解を超えるものではない。」

○ホイットマンの生涯
・ブルックリンのクウェイカー教徒の学校で、ランカスター・メソッドにて読書を学ぶ。
・11歳で弁護士事務所で働く。貸本屋の会員権を購入してもらい読書する。
 世界的名作を読んでも圧倒されなかった。それは、自然の中で読んだから。
 それは、読書している場所と読んでいるページを並置することによって、読者がその両者に対して共通の解釈空間を持つということ。
・16歳の暮れ、『ロング・アイランド・パトリオット』紙の見習い印刷工になる。
・1836年(17歳?)〜1838年、教師になる
・新聞の編集者になる
 民主制とは「自由な読者たち」によって構成される社会であるとの考えを育てていく。
 「新聞を作っている者の心には、その新聞を読んでいる人々に対して、何か不思議な共感のようなものが湧き上がってくるのである。」
 マーガレット・フラー(1810-1850、アメリカのジャーナリスト、評論家、女性権利の活動家)の文章を読む。→書物が与えてくれるものは、実際の経験によって置き換えられるものではないと考え、書物の中には「あらゆる人間性を見るための手段がある。全ての知識、全ての経験、全ての学問、全ての理想といったものが、私たち人間の現実に体験するさまざまな事柄とともに集約されているようなある中核を見る手段が、書物の中にはあるのだ」

○隠喩
「ホイットマンは生涯を通じて、読書という行為の意味を理解し、それを確定しようとしていたのではあるまいか。読書という行為は、書物を読むことと同時に、人間のあらゆる活動の隠喩でもあったのである。」

「隠喩」について、現代ドイツの批評家ハンス・ブルーメンベルク
「それは、さまざまな文脈を包括的に理解するための確かな手だてなのである」
著者=読者、書物=人間、世界=テクスト

このような隠喩は、古く初期ユダヤ教、キリスト教社会に起源を求めることができる
・ドイツの批評家E・R・クルティウス「世界そして自然が書物であるという考えは、カトリック教会で用いられていた修辞から生まれたものである。それが中世初期の神秘主義思想家に受け継がれ、ついには一般的なものとなったのである。」
・16世紀スペインの神秘主義者フライ・ルイス・ド・グラナダ。世の中のさまざまな事柄は、書物に書かれたアルファベットの文字
・サー・トマス・ブラウン
・スペイン生まれのアメリカの哲学者、ジョージ・サンタヤナ「読者による脚注、評言」

天使は神の言葉を直接受けられるので本を読む必要がない。→アウグスティヌスの言葉「あなた(神)こそ彼ら(天使)にとっての書物であり、あなたは永遠の存在だからです」

○身体的機能と読書の機能の結びつき
「この世界を、書物を、そして肉体を読む、というだけでは十分ではあるまい。読書の隠喩は、さらに別の隠喩、読者の書斎の外側にあって、しかも読者の肉体にあるようなイメージで説明されることを求めるからだ。ここで読書の機能は基本的な身体的機能と結びつくことになる。」
読書の隠喩の機能を理解するためには、読書そのものが隠喩を通じて把握されなくてはいけない。
 食べることの隠喩

最古の記録
紀元前593年7月31日、緒言者エゼキエル
聖ヨハネ、天使からの書物を食べること

シェイクスピア(1564-1616)の時代、エリザベス女王の比喩。
1695年、ウィリアム・コングリーブ
ジョンソン博士、貪り読む

○おわりなき円環
「我々は我々が読むものにほかならないのだ。この円環が完結するプロセスは、かつてホイットマンが論じたように、たんなる知的世界だけのことではあるまい。(中略)無意識のレヴェルでは、テクストと読者が絡み合い新たな意味が創造されているのである。我々がテクストを読みそれを吸収することで、そのテクストは何か新しいものを生みだし、そして同時に、それまで我々自身決して認識することのなかった何か新しいものがそこに生まれているのである。」


感想
この章ではまさに「読書の隠喩」が書かれている。
重要なのは、隠喩が「それは、さまざまな文脈を包括的に理解するための確かな手だてなのである」ということ。隠喩によってしか理解されないことがある。何故なら、きっとそれは説明しきれないものだからである。それは、誰にでも同じように開かれる形のエンコードはできない。理論立て再現可能な形で示すことはできない。それは、隠喩によって、相手方のデコードを信じる形でしか示すことが出来ない。

さらにこのようにして「世界」を隠喩で得ていく読書を行うことによって、私たち自身が、即ち世界自体が変容していく。デコード側が変容することで受け取る世界は刻々と変化する。
読書するということは受動的であると同時に能動的であり、このようにして主客の別が無意味になると思う。
読書に没頭しているとき、読書はまさに、世界を創造すると同時に自分自身を変える営みである。その時は確乎たる世界も私も存在してはいけない。変わりつつある形としての私という曖昧な形に自分が変わることを受けれ読書に自らを投げること、その不安定な場所を楽しむことが必要である。

2012年2月11日 (土)

The Oxford Handbook Of Memory 第九回

Title『THE OXFORD HANDBOOK OF MEMORY』
EDITED BY Endel Tulving,Fergus I.M.Craik
OXFORD UNIVERSITY PRESS ,2000

第九回

p22~23
The Episodic/Semantic Memory Distinction
エピソード記憶と意味記憶の差異について。その後Prodecural(手続き)記憶もプラス。

Knowledge Structures in Long- Term Memory
コンピュータでのシミュレーションが可能になり、自然言語の理解の為にその文章の成り立ちが注目され、それによってLTM中での各conceptのつながりに対する仮説が唱えられる。

2012年2月10日 (金)

The Oxford Handbook Of Memory 第八回

Title『THE OXFORD HANDBOOK OF MEMORY』
EDITED BY Endel Tulving,Fergus I.M.Craik
OXFORD UNIVERSITY PRESS ,2000

第八回

p19~22
Short-Term Memory Modelsをメインに。
その批判が最後にある。
STMとLTMという分け方は単純過ぎるとは思うが、研究の端緒としては素晴らしいと思う。
記憶、とひとくくりに言うものが、その属性によって記憶のされ方が異なるという発想は中々出て来ないだろう。

2012年2月 9日 (木)

The Oxford Handbook Of Memory 第七回

Title『THE OXFORD HANDBOOK OF MEMORY』
EDITED BY Endel Tulving,Fergus I.M.Craik
OXFORD UNIVERSITY PRESS ,2000

第七回

p17~19
Context Judgments from Memory

Source Memory
Frequency Judgment
Recognition memory

陳述記憶(宣言記憶)との関係が良くわからない….。recognition memoryの部分が特に良くわかっていないかも?

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